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「渋沢栄一は大きな会社を作った人」と知ってはいても、「具体的なことは曖昧だ」という人は少なくありません。

そこで、大河ドラマ(青天を衝け)の放映や新1万円札(2014年)が発行される前に、

渋沢栄一の生涯にわたる輝かしい功績について、いち早く知識を付けておきましょう。

ここでは、「渋沢栄一氏のWiki経歴と理念」「新一万円札の顔に選ばれた理由は?」

に迫ってみました。

渋沢栄一さんのWiki経歴

◆ 名前:渋沢栄一(しぶさわえいいち)

◆ 生年月日:1980年3月16日(91歳没)

◆ 出身地:埼玉県深谷市血洗島

◆ 学歴:江戸時代の当時には、小学校から大学までの教育制度が存在していなかったため、渋沢栄一も学校には通っていない。

7歳になると従兄弟の尾高惇忠(新五郎)のもとで「論語」も学び始めました。

◆ 職業:幕臣、官僚、実業家、教育者

◆ 栄誉:正二位 勲一等旭日桐花大綬章、子爵、黄綬褒章、紺綬褒章

◆ 配偶者:千代(1841年 – 1882年)、兼子(1852年 – 1934年)

◆ 子供:渋沢篤二、渋沢武之助、渋沢正雄 、渋沢秀雄、穂積歌子、阪谷琴子、明石愛子

渋沢栄一氏の経歴

・天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助(1810年 – 1871年)、母・ゑいの長男として生まれた。

幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。

・渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける富農だった。

・14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、

近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。

・江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、

民部省を経て直属の上司である大蔵大輔・井上馨の下で大蔵少輔・吉田清成等と共に造幣・戸籍・出納等様々な政策立案を行い、

初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

・井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、

東京証券取引所といった多種多様な会社、経済団体の設立・経営に関わり、同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、

商法講習所(現・一橋大学)、 大倉商業学校(現・東京経済大学)等の実業教育、東京女学館等の女子教育、

台湾協会学校(現・拓殖大学)の設立、 二松學舍(現・二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、

理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。

それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。

また「論語と算盤」の言葉で代表される、道徳経済合一の思想でも広く知られている。

・花柳界でも知られ、妾との間に一説には50人とも云われる子供を作っている。また、伊藤博文の幕末時の暗殺を暴露した人物でもある。

新一万円札の顔に選ばれた理由は?

渋沢栄一は「事業の私益と公益は高い次元で両立する」との信念を持っており、

常に大局を見失わずに国家や社会のことを考え、私心に走ることを厳しく戒める姿勢は一貫していました。

また、家中や社内の人にも思いやりをもって接し、その能力を発揮できるようにすることがよりよい社会や国家を作ることにつながるのだとも繰り返し述べています。

「近代日本資本主義の父」「実業の父」とも呼ばれる渋沢栄一。

その生涯で設立や経営に関わった会社は500以上にも上るとも言われます。

2021年に渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送され、さらに2024年には新札の肖像となることも決定しており、大いに注目が集まっている人物です。

大正5年(1916年)に著した「論語と算盤」でいわば「道徳とビジネス」の両立を説いたことはよく知られていますが、

それに先立つ明治42年(1909年)、龍門社(渋沢を慕う実業家の団体)での訓言でも、以下のように述べています。

「利用厚生、つまり銀行を利用してもらい人々の生活を豊かにする事業に従事するからには、どうしてもこの利用厚生が道理正しく世のためになるようにしたいものだ。

(中略)その標準を定めるためには、どんなものを拠り所にすればよいのか。

(中略)孔子の教えすなわち論語に従えば、必ず間違いなく事業経営ができるだろうと、このように祈念したわけである。」

(出典:渋沢栄一 国富論 実業と公益(国書刊行会)P165)

渋沢栄一は「事業の私益と公益は高い次元で両立する」との信念を持っており、常に大局を見失わずに国家や社会のことを考え、 私心に走ることを厳しく戒める姿勢は一貫していました。

岩崎弥太郎との比較が話題になりますが、以下の表現が分かりやすいのです。

「自分の能力を頼りに目先の正面突破を図ろうとしたのが岩崎で、意欲ある後進に知見と資本を提供し、長い目で見て世の中を変えようとしたのが渋沢。」

この違いが随所に現れているのです。

明治を代表する二大巨頭だが、渋沢は38歳のある日、44歳であった岩崎から料亭に呼び出されてこう持ちかけられる。

「2人が組めば、日本の実業界を思うままにできる。一緒にやって大金持ちになろうじゃないか。」

これに対し渋沢は激怒し席を蹴り、以降二人は長年に渡り反目し続けることになった。

との話はあまりにも有名である。

まとめ

 

渋沢栄一と岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)の比較論が、興味をそそりますが歴史的価値のある議論でもあるのです。

ここでは、“僅少の一面”の紹介にとどめましたが、今後の“関心と議論”一助になれば幸いです。

 

最後までお読みいただきありがとうございます。


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